アダチルニートの明るい脱獄日記

ニートじゃなかった期間を経てニートに還る。アダルトチルドレンのムショみたいな家の苦しみの叫び。いつか脱獄できることを誓って。百転び百一起きの精神で読んでる人を笑わせたいネガティブに。

依存で繋がっていた人間関係

友人には断りを入れたものの、本当は旅行に行きたい気持ちでいっぱいだった。

自分の矛盾した気持ちも伝えて、なんとかそれも受け入れてもらえたのに。

結局、返事にしびれを切らした友人に急かされるも親に言えず、止むを得ず断った。

この意気地なし、と思ったか、わけのわかんねぇヤツだと思われたか、はたまたなんだ残念、と思って忘れられたか。

自分でもわけがわからない何かに止められているような感覚。

いつもならいくことを決断していてもおかしくないのに、なぜか言えない。

ちなみに前回友人が言っていた予定だとちょうど大雪で行けなかった可能性が高かった。

旅行の話から姉の話に戻る。

そう、いつもそうだ。

母や父は、私と話をしていたと思ったら、次の瞬間には姉の話をしている。

それも無意識で。

長女の記憶しかないのだろう。

それがたとえ姉にとって不名誉な話題だろうと、「親に覚えられている」というだけで妬ましくなってしまう。

わたしはつねに、長女で比較的家ではのびのびしていた姉、家庭を脅かすかまってちゃんの兄の陰に存在を消されてきた。

本来甘え上手な末っ子の特性もなく、わがままも言ってこなかった。むしろいつも我慢させられることが多かった。

唯一末っ子っぽいところがあるとすれば、やたら哀れまれたり心配されることだろうか。

しかし、あまり心配されるのもいい気分ではなく、見下されていると思って反発したくなる自分がいる。

実際、明らかに見下してくる人もいる。

自分の存在する意味は本当になんなのだろうと考える。

いっそ「おまえなんかいなきゃよかった」とはっきり言われた方が楽ではないのかと思うこともある。

これでは生殺しだ。

都合のいいときにいてほしくて、都合のいいときに可愛がるペットで、それ以外は存在する意味をなさない。

家だけの話じゃなくても、今までの人間関係もそうだ。

いつも私が過剰に相手の心の先の先を読み、多少理不尽な思いをしても我慢して、それが友情なのだと思おうとしていた気がする。

でも、20歳を過ぎた頃、急激に熱が冷めたというか、何かおかしいと思う自分がいた。

私が気を遣うのをやめ、徐々に距離を置き始めると、疎遠になっていく友人が出てきた。

気を遣うといっても、それは自分の中では当たり前のことで、無理してやっていたわけではないが、相手に嫌われない反応をするのをやめたということだ。

私は自分の中では、相手に全てを捧げるくらいの気持ちで言葉などをかけていたつもりだった。(こういうと重く聞こえるが、気づかれない程度に)

それでも結局相手はもらいたがるばかりで、いっこうに変わる気などなかった。

相手が私に求めていたのは、耳心地のいい言葉と、無償で与えられる優しさだった。

つまり、それを与えない私という存在は、彼彼女らにとって必要でなかったということだ。

私が与える優しさなどに縋れるだけすがりつき、もらえなくなったらポイ捨てという感じだ。

これをさらに客観視するとこうなる。

私は優しさなどを相手に過剰に注ぐことで、もらいたがる相手との関係を繋いでいた。

それでは私がもつはずがない。

いつかは終わるものだったのだ。

よく、依存関係を作ることでつながりを保っていたという話を聞くが、自分は違うとどこかで思いたかったのかもしれない。

依存関係で作られたこれまでの交友関係は、これからほとんど切れていくかもしれない。

それとも縁は切れずに付き合い方が変わるのか、それはわからない。