アダチルニートの明るい脱獄日記

ニートじゃなかった期間を経てニートに還る。アダルトチルドレンのムショみたいな家の苦しみの叫び。いつか脱獄できることを誓って。百転び百一起きの精神で読んでる人を笑わせたいネガティブに。

悪人と信じる力

酷い人間に出会い、酷い目に遭わなかったのだろうという人を見ると、複雑な気分になる。

家族と仲がいいことが当たり前に育ってきた人は、信じられないほど冷たい家庭もあることを信じられない。

たとえば「家族がお小遣いをたくさんくれる」といえば、「あなたがかわいいんだね」で終わる。

実際には、私の家のように、お金でなんとか繋ぐしかない、という虚しい事実もある。

私は特に中学から、様々なタイプのヤバイ人間に遭ってきたので(もっと言えば家族がヤバイのだが)、この歳になって、少し話せば相手がどんな家族関係か大体わかるようになってきた。

そして仲がいいようであれば、どんなにいい人だろうと自分の家族の悪いことは言わないようにする。自分を無用な批判から守るためだ。

純粋な人には、純粋な世界しか見えない。

世界が線だけでできていると思っている人は、円もあることを知らない。

それならばそれで良い。

そういう人はそういう段階にいるだけ。

私には悪が見えるということは、ある意味私はそれを知るべくして生まれたのだろう。

私は偽善が嫌いだ。

真実をうやむやにしながらごまかして生きるなんて御免だ。

人間は知れば知るほど奥が深い。

私が度々苦労している人間も、ある意味とても貴重な資料のようなものだ。

本人は自覚しないが体を張って。

私も人生に対して体を張らざるを得なかった。

肉体を酷使というのとは違うが、明らかに肉体が追いついていないのにそれを無視して生きてきた。

そして実際に、おそらく父方譲りの細い神経なのか図太い精神力なのかわからないが、体力もないのに、それだけで、なんとか倒れることなく踏ん張って生きてきた。

私は私自身倒れることは体が動かない限り許さない。いや、体がじっとしていられない。

まだ見ない真実を探しに、自分の人生を探求するために生きる。

自分を実験体にして。

私はこのところ、とてもだるくて、何をやっても楽しくなかった。

そこでふと気付いたのは、自分を信じることだ。

可能性を思い出すことだ。

主体性を失った人たちは、ゾンビのように生きる。

自分に力があることを信じていないのだ。

私も忘れていたかもしれない。

自分には無限の力があることを思い出すのだ。

そう考えた途端、なんだか元気が湧いてきた。

私はいつもそうして生きる力を取り戻していた。

だからそれを思い出せばいつでも大丈夫。